『ひさの第2章 始まる』
2年間何も書けなかった。
忙しいのもいろんなことがあるのもいつものこと。
さまざまな出来事を通し気持ちが底を漂い続けた。
2年を経てようやく何かを言葉にしてみようという気になった。
あとひと月でひさのは9周年を迎えます。
よくぞ9年も休みなく走り続けてきたものだ。
自分もひさのも。
ひさのを支え続けてくれてきた皆さまのお陰です。
心より感謝申し上げます。
前回のブログで看取ったアキラさん以降この2年間で10名の方を見送った。
9人目はひさの立ち上げからずっと一緒に暮らしてきたアッコさんだった。
8年7か月ひさのを支えてくれた大黒柱のアッコさんなしにひさのは語れない。
とても大きな存在を見送り、ひさのの歴史も区切りを迎え、第1章が幕を閉じた。
そして10人目は昨夜午前0時過ぎ、イクコさんの旅立ちを娘さんと二人で見届けた。
急遽決まったイクコさんの入居、そして看取りは、この半年次々と巻き起こった出来事の大トリに相応しい不思議なご縁で繋がったものだった。
自然な看取り。自然の摂理に沿って老い命を終えること。最期まで暮らしの中にいること。
過剰な医療を受けずに、老いや死を自然の経過として取り戻す、捉え直す、そんな思いでやってきた。多くの場合人は死ぬと火葬され骨となり壺におさまって墓に入る。でも本来の生き物のあり方として亡骸は動物、昆虫、微生物に分解され、土に還り、生態系の循環の中に入ることができるはずだ。
自然の摂理って?そもそも自然って?自分は何も知らないではないか。
ホームの裏にある荒れた山林に足を踏み入れたとき、ふかふかの腐葉土の匂いと足の裏の感触に何とも言えない満たされた気持ちになった。とっさに「土に還りたい」と思った。
祖父の時代に植えた杉林が放置されている。いたるところから竹が生え荒れ果てている敷地内を手入れして、森の再生ができないだろうか。そうして自然を知ることができるのではないか。漠然とそんなことを思ったりしていた矢先、映画『杜人』に出会った。
「土砂崩れは大地の深呼吸」「イノシシが掘るように穴を掘る」
映画の中で矢野智徳さんは言った。びっくりした。悪者だった土砂崩れとイノシシの捉え方が180度変わった瞬間だった。そのふたつともが私の身近にあった。目の前にあった。
そしてうなった。複雑な気持ちになった。ここ数年の豪雨でホームの裏の崖の土砂崩れが年々進んでおり、数年前から市や県に補強工事の依頼をしていたのだが、昨年ようやく申請が通り県の予算がついて公共工事が決まり、地質調査も済み工事内容がほぼ決定したところだったのだ。話に聞いている工事の青写真はもちろん現代土木のコンクリート擁壁を主体としたものだった。
矢野さんだったら、どんな見立てをするのだろうか?自分たちでできることがあるのだろうか?軽い気持ちで重い相談を矢野さんの大地の再生事務局へメールしてみた。
自宅の民家で定員8名の老人ホームを運営して8年になります。家のすぐ裏が崖になっており、40年前にその崖の一部が崩れ祖父が土砂に巻き込まれ亡くなりました。それを受けて地面から2メートルのコンクリートの塀が県の工事で作られました。ここ数年の大雨で地滑り(土砂が落ちてくる)が続き、県や市に崖の補強工事を依頼し、ようやく申請が通り早ければこの秋着工予定となっています。映画杜人を観て、工事が入る前に崖と庭と隣接する森一帯の環境診断をお願いしたいと思った次第です。参加者を募りワークショップ形式にしたいとも考えています。気になっている点は以下の通りです。
1. 崖工事により土地が更に悪い環境にならないか。重機の通り道の選定。
2. 庭の樹木が元気なく、弱ってきている気がする。
3. 祖父の時代に一部杉の植林をしている隣接する森があり、竹が生えたり荒れたまま放置されている。ここを手入れして豊かな森にしたい。
以上よろしくお願いします。
翌日の返信メールには、ぜひ一度「大地の再生」講座に参加されてはいかがですか、とあり、1カ月後本拠地山梨県上野原の講座に参加した。ますます思いは確信となり、勇気を出して地元の工事関係のキーパーソンである土木の専門家の方と区長さんへ話に行った。現段階で今一度矢野さんの見立てをもうひとつ入れて具体的な計画を再検討してもらえないだろうかという私の提案は予想通り全く受け入れてもらえなかった。身内の反応も同様であった。残念ながら工事の変更を働きかけることは困難だと大地の再生担当者に伝えたところ、「これはあなた自身の問題。ご自分の感じられたこと、とても大切だと思います。そこに気を留めてみること。見過さない。日夜矢野さん大事にしてます。そのことがきっと、自分の何かをつないでいくと思います」と返ってきたその言葉が胸にずしりと突き刺さった。
その後『杜人』自主上映会開催、そして神風?が吹いて信じられないことに急遽矢野さんによる大地の再生見立て講座を開催することができた。前置きが長くなったがその見立て講座に予約もなしに遠く朝倉より飛び込み参加されたのがイクコさんの娘さんであった。
イクコさんは昨年10月病に倒れて以降コロナ禍の入院生活、家族は面会もままならないなか病状は次第に悪化、経鼻経管栄養は8か月に及んでいた。寝たきりでしゃべることもできない身体のお尻には床ずれができた。1週間に1回15分の制限面会を続けていた娘さんだが、最近の母の悲し気な様子に胸を痛めていた。本当はすぐにでも在宅介護をしたかったのだが、必須とされた吸引をするのがどうしても嫌で断念していた。もともと救急車は呼ばないでほしいという意向だった母。大地の再生講座の昼食休憩の際、たまたまそんな話を娘さんから聞いたのだった。その4日後改めて来訪され、詳しい病状と娘さんの気持ちを聞き、さらにその4日後イクコさんはすべての管を抜いてひさのへ入居した。
イクコさんは12日間、娘さんと一緒に過ごした。
娘さんは会えなかった時間を取り戻すかのように、ずっとそばにいて愛おしげに母に語りかけ手足をさすり、そのまなざしを見つめ息づかいに耳をすませた。毎日「おはようとおやすみ」を言いたいからとホテルをキャンセルし、12日間母の隣に布団を敷いて眠った。毎朝箒で玄関や裏庭を掃いてくれた。家でも子どものころから私の仕事だったから、母が懐かしくその音を聞いてくれるかもしれないといって。また昼食の担々麺のスープを一口飲んだとき、「これ母が好きな味だ!」と椅子に座る母の口へスープをひとさじ。途端ぱーっと目を開き笑ったという。
急遽準備して入居してもらった部屋は食堂と台所の隣で、話し声や調理の音、匂いがすぐそばにあった。暮らしのなかに戻ってきたイクコさんも五感をフル稼働して過ごしていたのではないかと思う。お料理が大好きだったので喜んでいると思いますと娘さん。大好きだったという越路吹雪のシャンソンをかけるとかすかに表情が変化したように見え、イクコさんの耳と心に届いているように感じた。モダンな都会生活を楽しむ若かりし頃のイクコさんが目に浮かぶようだった。
でも一番うれしかったのは娘さんの声と手のぬくもりだったに違いない。最期が近づいた時、走っている時のように速かった呼吸がゆっくり、静かに変わってゆくとき、そばでぐっすり眠っていた娘さんを呼んだかのように、娘さんはふと目覚めすっと母のそばへ。右手を握り母を見つめる。お母さんありがとう。美味しいごはんたくさん作ってくれてありがとう。最期に娘の手を自分の胸に押し付けるようにぎゅっと引き寄せ、涙が一筋頬を伝い永遠の眠りについた。
私が25年ぶりに故郷へ戻ってきて今年でちょうど10年になる。当時千葉で訪問看護師として働いていた私の人生の岐路の水先案内人は中村仁一先生と村瀬孝生さんだった。でも実はさらに深層で祖母(ひさの)に呼ばれたような気がしていた。白羽の矢を立てられたというか。首根っこをつかまれたというか。そして10年経った今、また大事な方向を示してくれる人に出会った。矢野智徳さん。ひさのを通して経験した老いや死。それが人目線でなく徹底して自然目線に立つ矢野さんのあり方とぴったり符合する。自然の声に耳をすます。自然に習う。自然と共に在る。一番身近な自然である自分(人間)のあり方を捉え直す。自然の中に答えがある。絶望的な世の中に希望が湧いてくる。どんな状況であってもできることをこつこつとやる。しがらみ構造が新しい風を呼ぶ。40年前に祖父が亡くなったこの場所を、この大地を守り手入れしていく、どんな状況になっても見つめ続けていくことが自分の役目なのだとすとんと腑に落ちる。そうか、もっと深いところで祖父からも呼ばれていたのだと勝手に感じ入っている。今日で55歳となった私の決意表明です。
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